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平和党は自然主義経済で、貧困と病気を撲滅します。食糧とエネルギーの完全自給は、家族・地域・地球の愛から。
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昭和40年代後半から昭和50年代に生まれた政治家

自分は昭和46年生まれであるが、この昭和40年代後半から昭和50年代に生まれた人というのは、日本が安定期に入った時代に生まれた人々である。

それ以前に生まれた人は脱脂粉乳とすいとんの話が必ず出るが、安定期世代においては、生まれたときにカラーテレビがあるので、不自由なく育つ最初の頃と言える。それ以前に生まれた人々は、「日本は貧しかった」というのが口癖。
それに比べると安定期生まれの人は、貧しかった話は聞いているので、ある程度は理解できる。
これに比べて、昭和60年代(4年と1週間しかないが)・平成初頭(まあ中学生くらいまで)は、バブル時代に生まれた人々である。
このうち、現代の政治においては、時代の安定期に生まれた人々が進出してきている。とくに民主党が若手候補者を起用し、また自民党もそれにつられている結果でもある。地方議員の平均年齢は、都市部においては若返ったと思う。

だが、この世代に特有なのは、冒険心があまりないこと。若いから、冒険心があるように振舞うが、実は実態をともなっていない。

そして、この世代の政治家は、固定概念に一番とらわれている人々である。

日本がアジアに対して平身低頭外交をして、屈辱的なるものを見てきていることと、戦争を肌で感じた事がないので、とかく軍拡派に走る。

または、日教組の影響を受けた社会主義教師に、反戦平和の理念を教えられ、これもまた、既定の思想を受け継ぐ。

つまりは、安定期に生まれているということは、それまでの考えが正しいとされているので、どちらか両極に偏るのである。政治とは、この二つの対立であると考えてしまう。まさに冷戦の遺物である。

だから、平和党のように右でも左でもないものにはわけのわからぬものとしての烙印を押す。

経済学においても、すでにマルクス経済が大学の選択科目に存在するのは、稀であるので、近代経済学が主流である。

安定期生まれの人々は、「変革」を考えるときに、日本が志向してきたケインズ型経済政策、すなわち利権政治に対しての嫌悪が強く、市場原理主義という古典的な既定の経済学を好む。

また、目的もわからずにとにかく「変革」することが好きなので、自民党田中派支配以来の親中国よりは、反中国に走りやすい。

時代の価値観が変わるときは、戦前から戦後がそうであったように、とにかくそれまでの逆をいけば何かが開けると思ってしまう。

だが、今進もうとしている逆の方向性は、かつてのものであるのだが、彼らの共通性は、それらを新しいものであり、それが日本の改革であると信じ込んでいる。

固定概念のある人には、右と左以外の選択肢は存在しないのである。

その「右と左以外の選択肢は存在しない」考え自体も、米国に植え付けられたものであることには気づいていない。

当然、平和党の政策は、既存の経済学から大きく逸脱したものであり、憲法のあり方、国連のあり方も、すでに大学などで教えているものを身に付ければつけるほど、邪教と見られるであろう。

根本的なるものを追究しないと、すでにあるものに縛られる事になる。

例えば、我々は現代において葬式の際は、黒い喪服を着ているが、江戸時代までは白が当然である。
明治時代は本を読んだら親に怒られたものであるが、戦後は本を読めという。
マンガなんて読んだらダメだといわれていたのが、今では普通におじさんが電車でマンガを読んでいる。

私は中学生のとき、シャツをズボンにいれずにいると、通りすがりのおばちゃんが「あんたシャツでてるわよ」などと注意されたが、今では普通におばさんがシャツを出している。ジーパンに穴があいてても、そのまま履いていたのは私が初めてではないか。

ファミコンが登場した頃、このころは超単純なゲームであったが、野球のゲームをやっていて、友人に「将来、選手の表情がでたり、監督が出てきたりもっとリアルになる」と言ったが、そんなことありゃしねえと笑われた事を覚えている。

中学生のとき、モータースポーツに興味を持った。エフワンは再び日本で開催され、日本経済がさらなる発展をすれば、企業がたくさんついて、日本人ドライバーも現れ、日本での中継もできるようになると言ったが、当時はモータースポーツなんてのは、反社会的なものであり、白い目でみられたものである。

セブンイレブンは7時から23時であるからセブンイレブンであった。夜中に開いたって、客が来るわけがないと考えられた。勿論、これは他の作用も加わって24時間になったわけだが、その「他の作用」自体を予測した人はいない。

年末年始と言えば、みんな家にいて、買物にも不自由したものだが、そんなこともなくなった。

自民党総裁以外が総理大臣になることは、ありえないと言われていたが、細川護煕・羽田孜・村山富市などは総理大臣になった。22歳のとき細川政権誕生をきっかけに私は政治の世界に入った。

日本で自民党政権以外のものが現れるとは予想だにしなかったものである。
まして、自民党と社会党が連立政権を組むなどと94年頃に言った人々は、大笑いにされたものである。
私は、政治の世界に入って、このような価値観の大転換が、他の世界よりも極めて多いと感じた。
一寸先は闇とは、よく言うが、まさにそのようなことばかりである。

半年前に通常考えられる選挙結果というのは、そのとおりになることもあるが、とんでもない信じられない事が多々起きる。

もともと柔軟性のある人間でなければできないのが、政治の仕事なのだが、今、出てきている安定期生まれの政治勢力の人たちのほとんどは、その能力がない。
彼らは、右と左の既定のワンセットを好むのである。

右の既定のワンセットとは、靖国神社参拝・天皇崇拝・大東亜戦争の肯定・市場経済・日米安保維持・日本民族優秀論、役人カットなどなど、全てがセットであるので、ここから他のものをトッピングでチョイスしたりすると筋が通っていないといわれる。その筋とは、誰が作ったものなのか。

左の既定のワンセットも右の逆で、やはり、その筋とは、固定概念によって作られている。

他の文化・社会は、既定の概念を打ち破っているのに、政治思想のほうは未だに、昔の人たちの神話に縛られているのである。しかも、若者がである。

若者というよりも、政治をやる人たちは、一般の人間からかけ離れた考えを持つものが多いため、固定概念に縛られやすいのだろう。

平和党は、今までにいろいろな政治団体からの共闘・選挙協力・合併を申し込まれた事がある。

横浜のある団体は、保守系環境派であると平和党をみているらしかったが、平和党は資本主義体制の維持を考えていないので、こちらから断った。彼らにとって資本主義経済以外のものは社会主義という固定概念がある。

広島のある団体は、反戦平和主義政党であると平和党をみているらしかったが、平和党は武力の放棄や憲法9条をいくら守っても、平和にはならないとの考えがあり、更にブーイング的政治活動には協力できないので、こちらから断った。ここにも左の既定のワンセットによる固定概念がある。

このように、自分が右であるとか、左であるとか確定している人々は、すでに既成概念に汚染されていることと、単に学問的知を楽しんでいるだけであるので、私はあまり関心を抱かないのである。世の幸・不幸よりも、自らの政治思想の満足に走りがちなのである。

つまり、そういう人たちは、すでに固定化されているために、政策を論じなくても、だいたい主張はわかっているのである。

しかし、今日までの政治の迷走は、この固定概念という狭い枠組みでの争いでしかない。

私は、左右両派の言い分、そして、それについて彼らがなぜ固執しているか、それが社会のためであると考えている人もいることはわかっている。理解もできる。本当にそうだと思う事はしばしばである。

だが、現実において、それで解決の日の目をみてない。
しかしながら、彼らは一種の宗教的な呪縛に陥っているため、我々には耳を貸さないだろう。
だから、今までも既存の政治勢力との合併を断ったのは、そういうところに理由がある。いずれ寛容さをもって、受け入れるにしても、今はその段階ではない。

「実は自然主義経済というものはケインズが提唱したものだ」

とか言えば、みるみるうちに人の目は変わるだろう。既成のお偉い学者の名前を出せばよい。
しかし、そのようにして、人々の支持を集めても、それは固定概念の人々を集めるだけにしかすぎず、いつか必ず行き詰まる。

日本には政党がいろいろある。だが、彼らの考えは実は同一である。
現行の近代経済学やマルクス主義に基づくものであり、戦後の戦争史観に基づくものである。
これらは平和をもたらさないし、貧富もなくならないし、病人も治らない。

そのほかにもミニ政党がたくさんあるが、それらミニ政党は、既成政党の一部分の政策や理念をクローズアップしただけのものであって、存在する意義は全くない。

政党というものは、理念・政策によって作られるものであるという理想の反面、自民党に入れなかったから民主党にいるとか、或いは自分がお山の大将になりたいから、既成政党と同じ考えを持っているのに、別途の政党を作るとかいうことになっている。
彼らにしてみれば既成政党とは、方法論が違うとか、年金だけが重要だとか、いろいろな理屈はあろうが、そういうものばかりである。つまり、どれも抜本的ではない。

安倍首相は「抜本的」という言葉が好きなようだが、どこにその抜本的なるものがあるのか疑問である。
私は共産党が政権をとったって、抜本的ではないと思っている。
共産党も社会主義という資本主義の思想の一つから始まっており、お金を政府によってするというただそれだけの違いである。

しかし、これを理解する人は少ない。

なぜなら、そのように親や先人に教えられているからである。
ただし、先人の歴史は、時代の変革期においては、今までの固定概念が全てぶっとぶということも教えているのである。

それが安定期生まれよりは、バブル時代において生まれた人の方が自然主義経済が理解されやすく、考えが柔軟であり、こうした固定概念に基づく人たちの背中を見てきているので、それに対する反動が生まれやすくなっているのではないかと思った。
Posted by : 大坂佳巨 | 政治 | 03:11 | comments(0) | trackbacks(0)
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